一本の道沿いに広がる高取城の城下町
大正12年、当時の吉野鉄道が吉野口-橿原神宮前間を開通させた際に開業。現在は近畿日本鉄道吉野線となっている。
天平勝宝4年(752年)建立。町内では壺阪寺に次ぐ古刹である。現在の下子島を中心に、一時は21坊の伽藍を誇った。
子島曼荼羅の名で有名な国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」(奈良国立博物館保管)は平安初期のもので日本三大曼荼羅の一つである。
光永寺の前庭にあります。
花崗岩の大石に人間の横顔が彫られている。
由来は諸説あるが不明である。
寛永7年(1640年)植村氏が藩主として入部後、山上の高取城では日常生活が不便なため藩主をはじめ家臣の屋敷は街道筋に移されました。
そして次第に城下町が形成されていきます。今も古い町屋が残る石畳の道が、当時のメインストリート土佐街道。正面の山が高取城です。
この石畳は、阪神大震災の復旧工事で出てきた阪神国道の路面電車の石畳を利用しています。
町屋は、当時ほとんどが平屋で2階は屋根裏程度のつし2階建てと呼ばれています。
お殿様を見下ろさないという配慮からと言われています。
窓には、連子格子が取り付けられ、このような昔ながらの町屋が今も街道沿いに続いています。
江戸時代に迷い込んだかのような感覚を受けます。
街道沿いには下屋敷の門が移築されている石川医院があります。
城下町としての名残が随所に見えます。
街道の両脇には水路があって火事の際には防火水に使えるよう水を堰き止める板をはめることが出来るようになっていたり、馬をつないでおく「駒止め」と呼ばれる金具が残っている。
また、町屋と町屋の間の隙間には間者等が潜めないよう板張りがなされているのも城下町ならではである。
明治-大正の呉服屋で時代を物語る建物は、現在、町の観光案内所「夢創舘」として利用されている。
高取の特産品の展示販売、ギャラリーとして活用されている。
脇のポケットパークには、昭和の俳人「阿波野青畝」の句碑もある。
土佐町(土佐街道)から壺坂道への分岐点。一般的に「下町の三ッ辻」を「札之辻」と呼ぶ。
当時はここに高札が建てられ道行く人々に「お触書」等を掲示した所であった。
ここには、当時「釘抜門」があり、町屋と家中屋敷の区切りとなった。
幕末には、ここに仮学問所があった。道端には、「右つぼさか・・・」と道しるべが残っている。
壺坂霊験記は、大和国高取郷土佐町に盲人「沢市」とその妻「里」の夫婦愛をテーマにした物語である。
信楽寺に奉られている。
小島神社には、奈良県指定有形民俗文化財である「ナモデ踊り絵馬」があります。
雨乞成就に際して藩内の村々から奉納された物で、雨乞いやその満願に際して踊られた姿が描かれています。
享保8年(1723年)、宝暦2年(1752年)、文政4年(1821年)に描かれた3枚が奉納されています。
※現在は文化財保護の関係でご覧いただけません。
長屋門をそのまま残す武家屋敷。建築から300年経過している。窓の格子が横向きの「与力窓」を2つつけた「長屋門」である。
特徴的なのは門を入ったところ。
玄関脇に格子にはめた「監視窓」付きの塀があり表口を警戒する。
他では見られない非常に珍しい構えである。
旧高取藩主筆頭家老屋敷で華麗な長屋門は県の重要文化財に指定されている。文永9年(1826年)建立で間口39.1m、奥行4m、むね高5mの規模で一重入母屋瓦葺き造り、腰板張りの部分は海鼠(なまこ)壁となっている。
近代武家屋敷の遺構を残している貴重な建物。現在は、旧藩主植村氏の居宅である。
昭和を代表する俳人「阿波野青畝」は、高取の出身である。生家の中庭には句碑がある。
「虫の灯に 読み昂ぶりぬ 耳しひ児」
※一般の方のご家庭のため、入ることはできません。
昔あった水車小屋を近頃復活させた。
上子島における2つの渓流が合流するところで壺坂山駅と高取城跡の中間に位置する。
ハイカーが利用しやすいよう休憩できる広場等を設け、砂防、防災的な機能を果たすとともに水と緑豊かな公園として整備された。
阿波野青畝の句碑も公園内にある。
公園入口より左手上の方を見ると土壁の建物が見える。高取城から移築された「火薬庫」ではないかと言われている。
砂防公園を出ると高取城へ上る大手道となり山道の様相を見せてくる。この辺りから山頂に掛けて「くすりの町高取」の名のように薬草の宝庫である。
高取藩主植村氏の菩提寺である。もともとは植村家政の下屋敷であった。元禄11年(1698年)に寺として創設。植村氏累代の墓碑がある。