渡来系豪族が闊歩した古代高取
大正12年、当時の吉野鉄道が吉野口-橿原神宮前間を開通させた際に開業。
現在は近畿日本鉄道吉野線となっている。
天平勝宝4年(752年)建立。町内では壺阪寺に次ぐ古刹である。現在の下子島を中心に、一時は21坊の伽藍を誇った。
子島曼荼羅の名で有名な国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」(奈良国立博物館保管)は平安初期のもので日本三大曼荼羅の一つである。
光永寺の前庭にあります。
花崗岩の大石に人間の横顔が彫られている。
由来は諸説あるが不明である。
7世紀後半に建てられたとみられ、古代幹線道路である紀路沿いの、飛鳥の内と外を分ける境界にあり、「飛鳥を守る砦」であるとみられています。
紀州街道・高野街道・巨勢谷・五条を経て高野・和歌山に通じる古代からの重要な路。
古代、渡来人もこの路を通ってこの地へ辿りついたのでしょう。
宮内庁は、草壁皇子の古墳として、ここを指定しているが、実際には束明神古墳が正解であるという説が、かなり有力である。
草壁皇子の古墳として本命視されている。
日本でも超一級の石室の大きさを誇る古墳である。
復元した石室は、橿原考古学研究所付属博物館にある。
6世紀初頭の古墳で巨勢氏の有力者が、葬られたという説が有力。
登ってみれば前方後円墳とはっきり体感できる古墳である。
天満神社内の前方後円墳。
国史跡で横穴式石室が、見れるよう整備されている。
斎明天皇越智岡上陵は、高取町大字車木にある丘陵の山頂にあります。
大田皇女の弟で、8歳で亡くなった聾唖の建王と間人皇女も合葬されています。
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