高取城の礎を築いた越智氏の興亡
大正12年、当時の吉野鉄道が吉野口-橿原神宮前間を開通させた際に開業。現在は近畿日本鉄道吉野線となっている。
中世の豪族であり「太平記」の時代にも登場する越智氏の山城である。貝吹山の頂上にある。
越智氏の本城は、越智居城(通称:お屋敷)であった。攻め入られた時等に利用する詰城が「貝吹山城」である。この関係は、後に、本城が貝吹山城、詰城が高取城という、壮大な物となっていく。
越智氏の本城があった地で、「おやしき」の地名が残っている。能楽越智観世ゆかりの地であり、能で有名な観世元雅(世阿弥の長男)は、越智観世の祖としてこの地に滞在していたと言われている。
もとは、興雲寺と称し、のちに光雲寺となる。越智氏の菩提寺である。山門前には古木「厄除けの杉」があり樹齢千年近い神木である。本堂は県の重要文化財に指定されている。
斎明天皇越智岡上陵は、高取町大字車木にある丘陵の山頂にあります。 大田皇女の弟で、八歳で亡くなった聾唖の建王と間人皇女も合葬されています。
紀州街道・高野街道・巨勢谷・五条を経て高野・和歌山に通じる古代からの重要な路。古代、渡来人もこの路を通ってこの地へ辿り着いたのでしょう。