阿波野青畝 句碑 かつらぎの山懐に寝釈迦かな

阿波野青畝

昭和を代表する高取町出身の俳人。大正13(1924)年に25歳と若くして、夏目漱石の『吾輩は猫である』などが連載された俳句雑誌『ホトトギス』の課題句選者となる。その後、山口誓子らと共に昭和の四S(しいエス)と呼ばれる作家の一人として、同誌の黄金時代を築いた。生家や長円寺の中庭といった町内随所に、5つの句碑が設けられている。

阿波野青畝先生
阿波野青畝先生

明治32(1899)年2月に高取町上子島で生まれた青畝は、少年時代から耳が遠く、家で過ごすことが多かった。この時、石川啄木の歌集や『万葉集』などを愛読していたことから、県立畝傍中学校へ入学した頃には俳句に興味を持ち、県下郡山中学校の教師・原田浜人に句作の指導を受ける。難聴のために中学卒業後の進学を諦めた前年には、俳人・小説家の高浜虚子と対面。同じく耳が不自由だった俳人・村上鬼城を例えに、激励を受けた。『ホトトギス』の課題句選者に就任したのは、大正12(1923)年に大阪で商家の娘・阿波野貞の婿養子となった翌年のこと。四Sのいわれは、当時『ホトトギス』で活躍していた青畝ら作家4名のイニシャルをとり、俳人で鉱山学者の山口青邨が同誌の講演会でそう称したことに由来する。句集は昭和6(1931)年の『萬両』から、93歳で没した翌年の平成5(1993)年に刊行された『宇宙』まで11冊。叙情を五七五でしっとり詠む作風は気品と温もりに満ち、代表作には大和に思慕を寄せた俳句も多い。

阿波野青畝 年表

明治32年           0歳     父橋本長治、母かねの五男として、明治32年2月10日に高取町上子島に生まれる、本名敏雄。
明治38年6歳高取町の土佐小学校に入学、耳病治療するも治らず。
明治43年11歳
母死去。
大正02年14歳
県立畝傍中学校入学。
大正04年16歳
書店の店頭で「ホトトギス」を求め県下郡山中学校教師原田浜人に俳句を学ぶ。
大正06年18歳
大和郡山の原田浜人宅の句会で高浜虚子に出会う。
大正07年19歳
県立畝傍中学校卒業、難聴のため進学を諦め、八木銀行に入行。
大正08年20歳虚子に客観写生に対する不満を訴える手紙を出す。返書に写生の修練は将来「大成する上に大事」であることを「暫く手段として写生の鍛錬を試みる」ことをさとされる。
大正12年24歳
大阪市西区の阿波野貞と結婚。
大正13年25歳
若くして「ホトトギス」の課題句選者となる。
昭和03年29歳
山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになる。長女多美子生まれる。
昭和04年30歳
郷里大和の俳人たちから請われ奈良県八木町で発刊している「かつらぎ」の主宰となる。「ホトトギス」同人。
昭和06年32歳
第1句集「萬両」を刊行し名実とみにあがった。
昭和08年34歳
妻貞死去、阿波野秀と結婚
昭和15年41歳
父死去。
昭和20年46歳
3月大阪の自宅戦災で焼失、西宮市甲子園に移る。妻秀死去。
昭和21年47歳
戦時下の統制令で他誌と合併した「かつらぎ」復活。田代といと結婚。
昭和22年48歳
カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ。
昭和26年52歳
虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去。
昭和33年60歳
虚子死去。
昭和38年64歳
俳人協会顧問となる。
昭和44年70歳
「よみうり俳壇」(大阪本社版)選者。
昭和48年74歳
第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞受賞。
昭和49年75歳
大阪府芸術賞受賞。
昭和50年76歳
4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年86歳
兵庫県文化賞受賞。
平成02年91歳
「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成04年93歳
第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

阿波野青畝 句表

第1句集「萬両」昭和6年
第2句集「国原」昭和17年
第3句集「春の鳶」昭和27年
第4句集「紅葉の賀」昭和37年
第5句集「甲子園」昭和47年
第6句集「旅塵を払ふ」昭和52年
第7句集「不勝簪(ふしょうしん)」昭和55年
第8句集「あなたこなた」昭和58年
第9句集「除夜」昭和61年
第10句集「西湖」平成3年
第11句集「宇宙」平成5年

鷹鞭(たかむち)句会

青畝の指導の下、高取町は大正から昭和初期にかけて、辻大牙(たいが)、森下紫明(しめい)、亀井淡子(たんし)などの俳人が活躍して俳句が盛況だった。
戦後一時衰退したが、現在は「鷹鞭(たかむち)句会」の方々が、村手圭子 先生の指導の下、青畝の意志を継いで活躍されている。