健幸とくすりの町 高取町
日本一の山城と歴史と文化に育まれた「健幸とくすりのまち」、この高取町のくすりの歴史はふるく、飛鳥時代の西暦612年推古天皇が聖徳太子や伴を率いて、高取の羽田の山野にて薬狩りを行ったと伝えられています。
この地は、豊かな自然に恵まれ薬となる動植物類が、豊富であったようです。また当時、中国から医薬術や薬の効用を伝え聞くとともに、秘伝の処方との合薬により家伝薬がつくられ、修験者によって大和の薬が、全国に広められたのが、大和売薬の興りとなりました。
江戸時代に入り高取城植村藩主が、江戸参勤の際、他の藩主に薬を贈り全国の販路拡大に貢献いたしました。そして江戸中期頃から奉行の許可を得て置き薬として各地を行商して歩くようになり、この置き薬が、現代の配置販売の始まりです。
明治を迎えると、高取地域の狭い土地に合った薬種業が急速に発展し、くすりを得意先に預け置き、次回訪問の時に使用した分だけ代金をいただく「先用後売」という独特な商法を用いた行商が行われるようになりました。
大正期には、高取薬業会が設立され、県の重要産業に指定され、製薬業、配置販売業が活況を呈するほど成長を遂げました。
健幸の町に伝わる くすりの物語
高取といえば「くすりの町」と表現されることが多いですね。その関わりは大変古いもののようです。
日本の古代宮廷をあげての大行事にくすりがり(薬猟)というものがあったそうです。
薬用になる鳥や獣を捕る、あるいは草を摘むことで、そのくすりがりが行われ出したのは、明日香に都があった推古天皇の時代から。
日本書紀によれば第1回目は推古19年(611)で、「夏の五月五日に、菟田野に薬猟す・・・」とあり、続いて翌20年(612)の第2回目は「夏五月五日に、薬猟して、羽田(はた)に集いて、相連きて、朝(みかど)に参趣く・・・」となっています。
この第2回目に出てくる「羽田」の場所が、高取町の羽内から市尾あたりであると考えられています。
今でも羽内には高取町内域唯一の式内大社として「はた」の名がついている波多甕井神社(はたみかいじんじゃ)があります。
この神社は「統日本紀」および「新抄格勅符抄」にも記されている由緒ある社です。(詳しくは町史等をご覧ください)
神農薬祖神祭
土佐恵比寿神社の入り口に
くすりパッケージを付けた竹笹が飾られる。
祭壇とくすり
神官による祝詞
奈良ブランド開発のくすり「天平宝漢」
神農薬祖神祭 高取の「神農さん」
神農さんは簡単に言えば、くすりの神さま。(商売の神さま・農業の神さまとしても祀られている)中国の伝説上の人物であるが、高取をはじめ日本各地で祀られています。この神農さんの姿はなかなかユニークで、頭の角の生えた牛、体は人間、葉の衣をまとい、草をかんでいるといったもの。
昔々、神農さんは、毎日毎日道端の草や薬をかじりながら歩き回っていた。そして「これは薬になる」とか「これは毒だ」とか言いながら、一日に百回ぐらい倒れては、また生き返った・・・そしてたくさんの薬になる植物と毒になる植物を分類して『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)という書物を作られた。
と伝わっています。もっとも実際は、神さまが本を書いたのではなく、長い歴史の中で言い伝えられてきた薬の知識を後生の人が集大成したもので、これが今の漢方薬の知識の始まりになっています。
高取の場合、特に明治になってから薬業が盛んになり、明治40年から薬祖の神さまをおまつりしているそうですが、この場合の薬祖神とは、日本の医薬の神である「少彦名命」(すくなひこなのみこと)であり、そのうちに薬業界に「神農さん文化」が広まり親しまれたことから、この二つの神を総称して「神農さん」として祀られるようになったということです。
どこに祀られていたかははっきりと伝えるものは残っていないようですが、昭和40年頃に下土佐恵比寿神社に社が建立され、今も神農薬祖神祭が11月22日に行われています。