貝吹山城址

貝吹山(貝吹山城址)

橿原市との境目に位置し、標高は210.3m。山頂には麓の人々が雨乞いをした「牛頭(こず)天王の塚」と呼ばれる直径約3mの円墳があり、南北朝時代には越智氏の山城が塚の上に築かれた。山城は元々、越智居城の詰め城であったが、後に本城となって高取城を詰め城にするまで発展した。貝吹の名はホラ貝を吹き、敵襲を知らせたことに由来。

貝吹山とその周辺には数多くの古墳や御陵をはじめ、越智氏が代々崇敬した有南神社や菩提寺として建立された光雲寺など、中世豪族ゆかりの社寺も点在する。見晴らしのいい山頂には「貝吹山城址」と刻まれた石碑が立ち、現在は曲輪と石垣の一部を留めるのみながら、かつては主郭を中心に四方の屋根上にも諸郭が連なっていたという。そもそも貝吹山城は、越智谷にあった居城を守る櫓代わりに築城され、越智本城の北方に点在していた家城と呼応し、敵の見張り役を務めていた。それが天文期(1532~1555年)に入ると防備施設が強化され、戦になれば越智氏は本城を出て、この山城へこもるようになる。やがては高取城を詰め城とし、貝吹山城を本城とした。越智氏は応仁の乱が起こる前後、室町時代の後半に最盛期を迎えるも、戦国時代には争乱続きで貝吹山も戦場と化す。遂には永禄11年(1568)年、織田信長方の松永氏との合戦に敗れ、貝吹山は落城することとなる。

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