越智山光雲寺 山門

越智氏

大和郡山市を本拠地とした筒井氏と対立し、大和国の覇権争奪戦を繰り広げた中世の豪族。高取城の礎を築いたことでも知られ、中世の芸能を代表する能楽「越智観世」もまた、越智氏の庇護によって育まれた。その出自は諸説ある中、清和天皇を祖とする大和源氏であった説が有力。最も勢力が盛んだったのは室町時代の後半とされる。

平安時代の中期、高取町には大和国の国府があった。大和守を務めることになった源頼親が赴任したことで、一族は大和国の南部に定着していき、やがて大和源氏と称されるようになる。越智氏の始祖となる宇野親家が源範頼に従属し、平家を追討した戦の功績から、賜った越智へと移り住んだ一族は越智氏と改称した。鎌倉時代の後期には、越智郷の周辺に居住していた越智党が大和国南部一の武士団へと成長。正和5(1316)年、楠木正成が加勢した六波羅勢との戦いで一時衰亡するが、南朝方の第一線を防備することを目的とし、元弘2(1332)年に高取城を構築する。貞和2(1346)年には菩提寺を建立。北朝方の筒井氏と激しく争うことになる、永享元(1429)年より勃発した「大和永享の乱」以前には、能楽師として有名な世阿弥の長男・元雅が越智氏のもとに身を寄せていたという。元雅は越智で由緒正しい能楽を伝え、「越智観世」と呼ばれる観世座分派の祖として後世に名を残す。

(写真)越智氏菩提寺 光雲寺