高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリート。当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。両脇に水路が流れる街道の石畳には、阪神淡路大震災の復旧工事で出た石が活用され、所々に埋め込まれた薬草タイルを見て歩くのも楽しい。
街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡る。大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。土佐の名は古くから住民に愛着がもたれており、明治22(1889)年に町村が合併した際には「高取」か「土佐」かで村名が争われたほどである。高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展。寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後、山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移された。ほとんどが平屋の商家と町家は、2階部分を屋根裏程度の空間に留めた「つし2階建て」。殿様を見下ろさないよう虫籠窓が設けられ、家々の隙間は壁で塗り込めたり、板を張って行列を襲う者が忍ぶことを避けた。城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。