子嶋寺

壺阪寺に次ぐ古刹。創建については諸説あるが、寺伝では孝謙・桓武天皇の病を癒した報恩大徳により、天平勝宝4(752)年に開かれたとする。一時は21坊もの伽藍を誇り、大和国の観音霊場として信仰を集めた。山門は高取城二ノ門を移築したもの。子島曼荼羅の通称で知られる国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」は、日本三大曼荼羅の一つ。

子嶋寺は金剛峯寺を本山とする、高野山真言宗の寺院。本尊は大日如来である。当初は寺号を子嶋山寺と名乗り、平安時代の中期以降からは観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称した。現在の子嶋寺へと名を改めたのは、山門に高取城二ノ門を移して再建された明治36(1903)年のこと。二ノ門は唯一現存する高取城の建造物であり、極めて貴重な遺構が山門に存在することは、寺が本多・植村氏ら高取藩主の厚い庇護を受けていた史実の裏付けとも見て取れる。延暦14(795)年に報恩大徳から2代目を継いだ延鎮は、山城国(京都)東山の霊場で修行中に坂上田村麻呂と出会い、後に2人で東山に清水寺を建立したことが『扶桑略記』に記されている。清水寺を末寺に置く子嶋寺は以後、坂上田村麻呂の蝦夷征伐と清水寺の縁起を描いた謡曲「田村」の発祥地として有名に。奈良国立博物館に寄託された国宝曼荼羅の他、国指定の重要文化財「木造十一面観音立像」は東京国立博物館が保管する。

マップ