南北朝時代初期の貞和2(1346)年に興雲寺と称し、越智氏の菩提寺として建立されたのが始まり。その後、室町初期の文安3(1446)年に復興開基されて繁栄するも、天正年間に越智氏の没落で衰退。元禄11(1698)年に再興してからは寺号を光雲寺と改めた。本堂は県の重文に指定されており、山門前には樹齢1000年近い厄除け杉がそびえる。
高取城の礎を築いた豪族・越智氏の菩提寺であった光雲寺は、高取藩ゆかりの禅寺でもある。境内には越智氏の墓と共に、植村氏に仕えた藩士の墓が築かれており、高取城の瓦も展示されている。また、厄除け杉が植えられたのは寺の建立以前のことで、越智邦澄が高取城を構築した元弘2(1332)年頃と伝わる。この杉が厄除けの神木として信仰を集めてきた由来のひとつに、越智氏の家臣・鳥屋陣羽守の息子たちが杉に登り、織田信長の命を受けた筒井順慶の追手から逃れたという伝説が残る。天保年間の当時、2人の息子は42歳に25歳とそれぞれ厄年であった。以来、厄除け杉と呼ばれる神木の樹齢は推定1000年。一度は枯死寸前となるも生気を取り戻し、今日も青々とした葉を茂らせる。黄檗(おうばく)宗ならではの建築様式が美しい本堂は然ることながら、方丈庭園に広がる四季折々の景観も見事なもの。本尊は釈迦如来の木彫座像、脇侍には文殊菩薩と普賢菩薩の木彫立像を祀る。