古代の官道であった紀路を見下ろす丘陵上にあり、飛鳥を守る砦の役目を果たした遺構と共に、終末期古墳や中世遺構なども検出されている。丘陵の南斜面に築かれた古墳は、明日香村のキトラ古墳と立地状況や墳丘の直径などが酷似。このことから、キトラ古墳と同じく天武天皇の皇子・皇女クラスの人物が埋葬されていた可能性を秘める。
平成14(2002)年12月から翌年にかけて行われた高取町教育委員会の発掘調査により、およそ古墳とは想像もつかない僅かな膨らみから、時代を跨ぐ数々の遺物が出土した。まず、1号墳では頂上部に土穴、丘陵の先端部には大型の掘立柱建物跡が確認され、物見櫓らしき柱穴や周囲を巡る柵跡なども発見。紀路に沿った、都の出入り口が監視できるロケーションから、飛鳥時代の砦であったと推測される。1号墳の南斜面に広がる2号墳においては、7世紀後半の築造とみられる円墳跡が見つかっている。中世以降の整地によって墳丘は既に削られていたものの、排水溝などの下部構造が明らかとなり、終末期古墳であることが分かった。その他にも、須恵器・土師器の破片をはじめ、古墳時代後期の木棺墓や平安時代の土坑墓、中世の柱穴群までもが検出。天武天皇の皇子・皇女との由縁が囁かれる、砦を壊して造られた大規模な古墳は然ることながら、異なる時代の複合遺跡としても注目を浴びる。