宮内庁が管理する斉明天皇とその娘・間人皇女の合葬陵。陵前には斉明天皇の孫娘にあたる大田皇女の墓も造られており、更には8歳で亡くなった皇孫の健王も自分の陵に埋葬するよう、斉明天皇が遺言を残したと伝わる。古代飛鳥で活躍した女性たちの痕跡を辿る「日本遺産」の中でも、家族愛に溢れた陵墓のひとつ。
斉明天皇といえば、一度退位して再び皇位に就くという、日本史上初の譲位と重祚(じゅうそ)をなした女帝である。その陵墓については、『日本書紀』天智天皇6(667)年2月27日の条でこう記されている。「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡(現在の越智崗)上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」。天智天皇こと中大兄皇子は、母である斉明天皇と妹の間人皇女を一緒に眠らせ、娘の大田皇女も寄り添うようにして陵前に葬ったとされている。また、斉明天皇は若くしてこの世を去った中大兄皇子の子・健王を可愛がっていたことから、「万歳千秋の後に、要ず朕が陵に合葬れ」と群臣に命じ、孫を想って挽歌も詠んでいる。宮内庁はこれまで、車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として管理してきたが、平成22(2010)年に成果が発表された明日香村教育委員会の発掘調査により、牽牛子塚古墳こそが天皇陵である可能性も高まってきている。